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テレビ時代の草分け大橋巨泉さん逝く、記憶に残る「11PM・クイズダービー」 [訃報]

大橋巨泉.png

週に3本以上の番組は持たなかった。
どんなに才能が有っても毎日出ていれば飽きられる。
タレントとしての価値を消耗せずに生き残る策だったのだろう。
テレビ黄金時代を駆け抜けた大橋巨泉さんが82歳で人生をリタイアした。

草創期からテレビの世界に生きた。
あの萩本欽一さんが「今のテレビは巨泉さんが開拓した道を継承している」と悼むのはよくわかる。
大人向け番組の司会を通じてマージャンや競馬に市民権を与えたのも功績だろう。

突然、「セミリタイア」を宣言したのは56歳の時。
体力のあるうちに余生を楽しみたいと、あらゆるレギュラー番組から降板した。
働け働けの昭和一桁世代らしからぬ選択が新鮮に映った。

生きる優先順位を著書にこう書く。
「1に健康、2にパートナー、3が趣味で4が財政計画」。
言葉どうりに夏はカナダ、冬はオセアニアに暮らし、春秋は母国で。
その生き方は同世代の憧れと共感を生んだに違いない。

11年前からがんで闘病生活に。
政治への苦言も続けながら、誰より愛したテレビの今後を気遣っていたはずだ。
ネット全盛で冬の時代を迎えた現役世代の後輩たち。
メディアとしての魅力を生み出す策を授けてほしかった。


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表現の人永六輔さん逝く、主張し行動し信念の人 [訃報]

永六輔.jpg

人生は、旅によく例えられる。
といっても、あなた任せのパック旅行を思い浮かべる向きは少なくないだろう。
テレビの長寿番組「遠くへ行きたい」で初期に道案内をした永六輔さんに名言がある。
「横町を曲がれば、もう旅は始まっている」

その人が永遠の旅に出てしまった。
「電波の届く先で見聞きし、スタジオに戻って話せ」。
師と仰ぐ民俗学者宮本常一の教えどうり、ちまたの声を拾ってラジオ番組で伝えた。
ロングセラー「大往生」も、その副産物だ。

横丁は曲がっても、信条は曲げない人だった。
職人から尺寸の物差しを取り上げた国を相手に、お縄も覚悟で尺貫法の復権運動を繰り広げた。
「遠くへ行きたい」の広告主だった国鉄の民営化に新聞の意見広告で異を唱え、番組を降ろされたことも。

昭和一桁生まれで、大の戦争嫌い。
俳優小沢昭一さんや落語家桂米朝さんとの句会が続いたのも、きな臭さに対する嗅覚が似ていたからという。
憲法のありがたみを知る人を見送るのは今、寂しいだけでは済まない。

東京の下町暮らしで、俳号も「6丁目」とした。
<遠まわりして生きてきて小春かな>。
早口の、あの江戸っ子がたどり着いた旅の境地とも読める。


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福島が薄れ東京五輪が近づく、ジレンマを綴った川柳句集 [訃報]

 福島からの風.png

「福島からの風」が届いた。
そんな題名の川柳句集。
福島県のへその位置にある本宮市の元県職員、伊東功さんが自費出版で分けていると知り、送ってもらった。

おととし出た第2句集には、東京五輪にちなんだ句が目に付く。
<五輪より一輪の花被災地へ>。
花の舞台に寄せる心の、せめて5分の1でも・・・との願いが切ない。
読んだ何人もが「気持ちを代弁してくれた。全国に届けて」と勧めてくれたという。

五輪の句は、ことし第3句集にも入っている。
<あと4年故郷追われもう5年>。
残り年数のカウントダウンに入った世の中との落差。
福島第一原発から60㌔離れた本宮市は、避難区域の高校生たちも受け入れてきた。
その胸中に寄り添う。

粛々と、時計の針を元に戻す原発の再稼働にも、「風」は目を向ける。
<川内をさせてはならぬセンダイに>。
フクシマを経験した以上、電力会社や国にだまされたとは二度と言えない。
そうした自戒とも読み取れる。

一言居士のようだが、句に添えられた解題に奥さんの陰がちらほら。
以前と似た作品には「アンタ、またズルやったわね」と厳しい。
手加減なしの批評にさらされ、耐えた「風」は、かみしめがいがある。




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名曲「襟裳岬」作詞者岡本おさみさん逝く、森進一NHK紅白の卒業曲に [訃報]

襟裳岬森進一.png

年の瀬、忘年会で多くの人がマイクを握ることだろう。
テレビでも歌の番組が増えてきた。
寒さが募ると、人は歌が恋しくなるのかもしれない。
声を張って、あるいは心の中で口ずさんで。
冷えた身が温まる気がする。

森進一さんの「襟裳岬」は、たき火のそばに誘うような歌だ。
思うに任せなかった一年だけど、悲しみや胸にしまった思いを拾い集めて暖をとろうよ・・・。
そんな語りかけにも聞こえる。
独特のしゃがれ声が胸にしみる。

「襟裳の春は何もない春です」。
印象的なフレーズが地元の反感を買ったことがある。
何もないとは失敬な、と。
だが北の大地を旅する若き作詞家を「何もないけど」と言いつつ、温かくもてなした老夫婦の人情を刻んだという。

その詞を書いた米子市出身の岡本おさみさんが亡くなった。
作曲は広島ゆかりの吉田拓郎さん。
自分が思うままに吐いた言葉に拓郎がが曲をつけ、森進一らしく歌った3人の気持ちいい共同作品だと、自著につづっている。

41年前の暮れに「襟裳岬」は数々の歌謡賞に輝く。
「宝物のような曲」と語る森さんは、今年限りで紅白を卒業するそうだ。
旅立った岡本さんにささげるような熱唱を大みそかに聴きたい。



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「焼け跡闇市派」野坂昭如さん逝く、無頼を気取った多彩な人だった [訃報]

野坂昭如.jpg

空襲で焼け出された兄妹は励ましあい、生きようとした。
だがひもじさの中で相次ぎ息絶える。
「火垂るの墓」はアニメも不朽の名作となった。
だが作家の体験は少し異なる。
妹は飢えで死んでしまうが、自分は生き延びた。

神戸の空襲が「焼け跡闇市派」野坂昭如さんの原点という。
何とか手に入れた食べ物を、1歳の妹の分まで口にした。
己の生への執着を知る。
「戦争童話集」など作品に弱者の悲しみをつづるのは、胸のつかえからか。

作詞に歌手まで多彩な顔を見せた。
無頼を気どり、型破りな言動で世を騒がせもしたが、心の中にはいつも焼け跡が広がっていたに違いない。
二度と飢えた子供の顔を見たくない・・・。
そう訴えて参院選挙にも立った。

脳梗塞を患っても口述筆記で気を吐く。
死を目前に、永六輔さんのラジオ番組にこう寄せた。
物騒な世の中になったとして「平和とやらを守るという名目で、軍事国家、つまり戦争する事にだってなりかねない」。

この夏に新装なった戦争童話集のあとがきでも警告していた。
「戦争は、気が付いた時には、すでに始まっているものだ」と。
それを肌で知る人の旅立ちが、このところ相次ぐ。
心細くてならない。




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水木しげるさん逝く、あの世はこの世で描いた楽園なのか [訃報]

水木しげる.jpg

妖怪はいいなあ。
テレビアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌は「朝は寝床でグーグーグー」「おばけにゃ学校も試験も何にもない」。
目玉おやじはいつも茶わんのおふろにチャップンと浸かる。

おどろおどろしくも、どこかのんきな異世界を好んで描いた水木しげるさんが逝った。
あの妖怪たちは自分の分身でもあったのだろう。
眠ることをこよなく愛し、境港市で過ごした幼少期から遅刻の「確信犯」だった。
勉強は嫌いで成績も悪かった。

鬼太郎と仲間たちは「南方の人たちに似てる」とも。
戦争の終わり、ラバウルへ送られて出会った現地の人々は食べられるだけ働き、あとは遊んで暮らしていた。
水木さんは激戦地で死線をくぐり抜けながらそこに楽園を見たという。

「結局、幸せの線をどこで引くかでしょうね」と晩年のエッセーにある。
自ら創り出した妖怪たちから見ると、飽くなき欲望にかられる現代人や、効率ばかり追い求める社会こそ、もっとたちの悪い怪物かもしれない。

好きなことしかしないと言いつつ、人は何のために生きるのかを見つめ続けた人だろう。
信じていた見えない世界に、ついに足を踏み入れてしまった。
さあ、今度は何をみるのやら。


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昭和の大女優、原節子さん95歳で大往生 [訃報]

原節子.jpg

「東京物語」「青い山脈」などで知られる女優で、日本映画界に一時代を築いた原節子さんが、 9月に亡くなっていたことが分かった。
親族によると、8月半ばに入院、9月5日肺炎のため神奈川県の病院で死去したことが25日分かった。本人の意向で、亡くなったことを公表しなかったという。
原節子さんは昭和30年代、42歳で突如スクリーンから消えた。マスコミとの接触も絶った伝説の女優は、半世紀にわたって沈黙を貫き世を去った。

原さんは横浜市の高等女学校を中退後、姉の夫である熊谷久虎監督の勧めで映画界に入り、1935年に「ためらうなかれ若人よ」でデビュー。
山中貞雄監督の「河内山宗俊」で注目を集め、初の日独合作映画「新しき土」でヒロインに抜擢され、一躍時の人になる。
「独逸(ドイツ)へ行く大和(にっぽん)撫子(むすめ)」
「日本の名花から/愈々(いよいよ)世界の恋人」
1937年、日独合作映画「新しき土」公開のために原節子さんがベルリンに赴くことが決まると、新聞各紙にはこうした大きな活字が躍った。

日本人離れした大きな瞳と彫の深い顔立ちで、外国でも見劣りしない目鼻立ちのくっきりした美貌(びぼう)で長身の女優が生まれたことを、当時の日本人は手放しで喜んだ。
だが、人気を誇りながらも、20代のうちは演技では芳しい評価を得られなかった。
当時メディアのインタビューに、「映画はクローズアップ使うでしょう、そういう時、演技ばかりで押し切らず、高い程度の人間ってのかな、それを出したいんです」(30歳当時の発言)
「わたし昔から大根々々といわれつけているので悪口いわれても平気になったけれど、映画評なんかもっと指導的であってほしいの」(31歳当時の発言)
こうした真剣な発言が、インタビュー記事の中では、ともすれば揶揄(やゆ)的にとり上げられた。
「路傍の石」「ふんどし医者」で夫役を演じた生前の森繁久弥さんによると、猥談(わいだん)にも乗ってくる開放的な女性だったという。
著書の中で「そんな話をする奴も周りにいないのだろう」と同情している。

戦後、黒沢明監督の「わが青春に悔いなし」で、運命に立ち向かう主人公を熱演。今井正監督の「青い山脈」前後編の、知的で明るい先生役などの好演で演技は開花した。
49年に「晩春」で初めて小津安二郎監督とコンビを組み、父を思う独身女性を情感豊かに演じた。
尾道市でもロケがあった「東京物語」では上京した老夫婦を気遣う嫁を好演し、世界的巨匠となった小津監督の代表作に。
「麦秋」「秋日和」などにも出演、誠実でしとやかな日本女性というイメージを印象づけた。

「若いときは、どうして結婚しないんだといわれたり、気持ちが不安定で、早く年をとって安定した中年の美しさを身につけたいなあと思ってました。人形的な美しさでなく、内面のうかがえる美しさ、好もしい顔、感じのいい顔……」(40歳当時の発言)
それからは、木下恵介監督「お嬢さん乾杯」成瀬巳喜男監督「めし」「山の音」、黒沢明監督「白痴」など、多くの名監督と組んで日本映画の黄金期を築いた。

恋人役も母親役もこなせる女優として期待され、「永遠の処女」「不滅の大スター」と呼ばれたが、62年「忠臣蔵」を最後に42歳で原さんはスクリーンから消える。
その後50余年、映画界やファンとの交流も一切絶ち、神奈川県鎌倉市内で静かな生活を送っていた。

マスコミとの接触を絶ち、一切の取り次ぎは同じ敷地に住むおい夫婦が引き受けた。63年、小津安二郎監督が死去した際、通夜に訪れたのが公の場に姿を見せた最後。
玄関に立ち尽くし、泣いていたという。時折写真週刊誌やテレビのワイドショーが私生活を盗み撮りしたが、黙殺した。

94年、原さんの名前が久しぶりにマスコミをにぎわせた。東京都狛江市の宅地約2900平方メートルを売却したことから、高額納税者番付の75位に顔を出したのだ。
おいの妻が伝えた本人のコメントは「そっとしておいてほしい」(73歳当時の発言)。

「小津監督の命日、一輪のバラを墓前に供え続けた」「地元の公民館が小津映画を上映したとき、ほおかむりをした原さんが見に来た」といううわさも流れた。
肯定も否定もしないまま、原さんは世を去った。

同居していた甥(75歳)は、「安らかな最期でした。95歳で大往生でしょう」と心境を話した。


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