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昭和の大女優、原節子さん95歳で大往生 [訃報]

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「東京物語」「青い山脈」などで知られる女優で、日本映画界に一時代を築いた原節子さんが、 9月に亡くなっていたことが分かった。
親族によると、8月半ばに入院、9月5日肺炎のため神奈川県の病院で死去したことが25日分かった。本人の意向で、亡くなったことを公表しなかったという。
原節子さんは昭和30年代、42歳で突如スクリーンから消えた。マスコミとの接触も絶った伝説の女優は、半世紀にわたって沈黙を貫き世を去った。

原さんは横浜市の高等女学校を中退後、姉の夫である熊谷久虎監督の勧めで映画界に入り、1935年に「ためらうなかれ若人よ」でデビュー。
山中貞雄監督の「河内山宗俊」で注目を集め、初の日独合作映画「新しき土」でヒロインに抜擢され、一躍時の人になる。
「独逸(ドイツ)へ行く大和(にっぽん)撫子(むすめ)」
「日本の名花から/愈々(いよいよ)世界の恋人」
1937年、日独合作映画「新しき土」公開のために原節子さんがベルリンに赴くことが決まると、新聞各紙にはこうした大きな活字が躍った。

日本人離れした大きな瞳と彫の深い顔立ちで、外国でも見劣りしない目鼻立ちのくっきりした美貌(びぼう)で長身の女優が生まれたことを、当時の日本人は手放しで喜んだ。
だが、人気を誇りながらも、20代のうちは演技では芳しい評価を得られなかった。
当時メディアのインタビューに、「映画はクローズアップ使うでしょう、そういう時、演技ばかりで押し切らず、高い程度の人間ってのかな、それを出したいんです」(30歳当時の発言)
「わたし昔から大根々々といわれつけているので悪口いわれても平気になったけれど、映画評なんかもっと指導的であってほしいの」(31歳当時の発言)
こうした真剣な発言が、インタビュー記事の中では、ともすれば揶揄(やゆ)的にとり上げられた。
「路傍の石」「ふんどし医者」で夫役を演じた生前の森繁久弥さんによると、猥談(わいだん)にも乗ってくる開放的な女性だったという。
著書の中で「そんな話をする奴も周りにいないのだろう」と同情している。

戦後、黒沢明監督の「わが青春に悔いなし」で、運命に立ち向かう主人公を熱演。今井正監督の「青い山脈」前後編の、知的で明るい先生役などの好演で演技は開花した。
49年に「晩春」で初めて小津安二郎監督とコンビを組み、父を思う独身女性を情感豊かに演じた。
尾道市でもロケがあった「東京物語」では上京した老夫婦を気遣う嫁を好演し、世界的巨匠となった小津監督の代表作に。
「麦秋」「秋日和」などにも出演、誠実でしとやかな日本女性というイメージを印象づけた。

「若いときは、どうして結婚しないんだといわれたり、気持ちが不安定で、早く年をとって安定した中年の美しさを身につけたいなあと思ってました。人形的な美しさでなく、内面のうかがえる美しさ、好もしい顔、感じのいい顔……」(40歳当時の発言)
それからは、木下恵介監督「お嬢さん乾杯」成瀬巳喜男監督「めし」「山の音」、黒沢明監督「白痴」など、多くの名監督と組んで日本映画の黄金期を築いた。

恋人役も母親役もこなせる女優として期待され、「永遠の処女」「不滅の大スター」と呼ばれたが、62年「忠臣蔵」を最後に42歳で原さんはスクリーンから消える。
その後50余年、映画界やファンとの交流も一切絶ち、神奈川県鎌倉市内で静かな生活を送っていた。

マスコミとの接触を絶ち、一切の取り次ぎは同じ敷地に住むおい夫婦が引き受けた。63年、小津安二郎監督が死去した際、通夜に訪れたのが公の場に姿を見せた最後。
玄関に立ち尽くし、泣いていたという。時折写真週刊誌やテレビのワイドショーが私生活を盗み撮りしたが、黙殺した。

94年、原さんの名前が久しぶりにマスコミをにぎわせた。東京都狛江市の宅地約2900平方メートルを売却したことから、高額納税者番付の75位に顔を出したのだ。
おいの妻が伝えた本人のコメントは「そっとしておいてほしい」(73歳当時の発言)。

「小津監督の命日、一輪のバラを墓前に供え続けた」「地元の公民館が小津映画を上映したとき、ほおかむりをした原さんが見に来た」といううわさも流れた。
肯定も否定もしないまま、原さんは世を去った。

同居していた甥(75歳)は、「安らかな最期でした。95歳で大往生でしょう」と心境を話した。
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